昭和42年10月23日   月次祭



 私共が、いよいよ、幸せになっていくために、いよいよ、限りなく美しゅうならせて頂くと言う事に焦点をおいて、ここんところを限りなく深めていきたい。
 人間の不幸せの元と、そういうものは私共の、本当に我情我欲、云うなら汚さ、そういう我情我欲が元でございます。一つそこを本当に一つ分からなければならない、人間の不幸の元、不幸せの元になるものは人間の我情我欲である。
 そこで、ならここでは皆さんが合言葉のように限りなく美しゅうなりましょうやと言う事を申します、一つ本気でそれが合言葉ともなり、家族でも家庭に於いてもそのことが中心を成し得ようになります時に、家庭の円満と言うことは言えるのではなかろうかとこう思います。
 どのような問題が起きりましても限りなく美しゅうなろうと言う焦点に、お互いが思いを置き換えますと問題は(  ?  )解決なんです。自分の我情、自分の我欲、自分があーしたい、自分がこうしたいと言う、そういう欲がです、いよいよこんがらがった問題を作ってくるのです。ね。
 もう限りなく一つ美しゅうならせて頂こうと、ね、夫婦の間に問題が起きた、親子の関係が起きたと、時にです、ならこの問題をです、ね、お互いが限りなく美しゅうなろうという所に焦点を於いて検討するならばです、それは、早速有り難い答えが出てくるのですよ。自分の思いを通そうとする、ね、自分の汚さは棚に上げて、人の否だけを責めようとする、そこに問題がある。
 現在教団で要目というのが、皆さんが、脇殿から上がってみえますと、正面に要目というのが出ておりますですね、ね、お取次を頂いた、お互いが信心生活をさせて頂こうと云う様々な要目が三つの要目に分かれて書いておられます。御本部に参りますと両方に額になっておる、よその教会に参りますと必ずここに額が上がっておりますけれども、ここでは返って、え~、いわば、掲げとるだけで良く見ない、あそこにはたいがいがきとるのがかかって見えるから、あそこへは飾っていいので、あそこへ掲げたんですけれども、ね、その中にもです、もうとにかく一番難しい問題であろうと思うんですね、人間関係ということは、中でもとりわけ人間関係のことをということは詩ってございますでしょう。ね。 様々な難儀はあるんですよ、お金がないとか、病気をしおるとか、ね、様々なありとあらゆる難儀はあるんですけれども、その中でも、とりわけ、人間関係の難儀と云うのが不幸せの癌になっておると言う事があの要目を見ただけでも分かります、いかに人間関係と云うのが難しい、いかに人間関係と言うのがまた大事か、また、いかに人間関係の上におかげを受ける事が人間が幸せであるかと言うことがあの要目を見ただけでも感じられます、ね。
 ところが、有り難いことに合楽では限りなく美しゅうなりましょうよという一つのスローガンとでも申しましょうか、椛目の信心はと問われましたら、もうこれなんです、どのような問題が起こっても限りなく美しゅうなろうということなんです、ね。
 教祖が仰っておられますように、信心とは日々の改まりが第一なり、ね、信心とは日々の改まりが第一であり、信心とは本心の玉を磨くものぞやと、と言うように信心の一番大事なところをそういうふうに仰っておられます、その磨くというても、改まるというても、ね、やはり美しゅうなると言う事なんです。ね。
 素肌からきれいにする、嫌、本当を言うたら心からきれいにする、心を美しゅうする、何とはなしにきれいはあんまりようはないけれども美しいんです、麗しいものがこの堂上の上にも現れてくる。きれいは良いけれどもきれいがある、きれいはいいけれどもすきなところがない、そんな人がおりましょう、きれいはなんともなしに、そうさほどでもないけどなんとはなしに愛がある、ね、そういう私は、その、お互いおかげを頂きたいと思う、ね。
 この頃、大祭の時に後にです、昼方から私酔っぱらってから、いろいろ話がありましたけれど、ある教会の総代さんが、ここの先生はなかなか、その、陽かですね、その、まあ、人相がいいという訳なんです、そしたら、(  ?  )修行生が私に言うんですね、(  ?  )、ほんなエビスさんのような顔してからちいうてから、私は(    ?     ) 、いつもあんな調子なんです、まあ、ほんなこつは、しかしエビスさんのごたるは、まあ、よかですよね、ニコニコしてから(笑い)、ね、やはり、それは(   ?  )ニコニコできない、ね、やはり心の中にニコヤカなものがなからなければエビスさんのごたる(    ?     )、ね、それにはです、やはり、私共が本気で一つ垢を落とさなければいけない、いわゆる、本心の玉を磨くと言う、美しゅうすると同時にです、ね、本気で改まらなければ、いわゆる、と言うことは本気で自分の荒垢をとらなければさなければ行かん、もう荒につけてでも落とさなきゃ行けない、ね、ゴシゴシに磨かないかん、ね、その上に本心の玉を磨くものぞやと仰るから、いわゆる、磨きをかけていく、様々な問題を通して、それを通して思うてそれを磨いていく、心が光、輝きするようになる、なれれるんですよ、ところがその人間なのですから、ね、確かに、昨日は心の中に有り難い喜びがあった時には、もう、心がもう光、歩んでは輝きをもってきおるんです、ところが、一日汚い所の中に、に、いわば、汚い所に入っておりますと、またいつのまにか汚れたり曇ったりしておる。
 毎日お風呂に入るけれども、やっぱり、垢があるようなものだと、もう限りぎない、ね、こんところは、(        ?       )、昨日はこのぐらいな事に腹が立たなかったのに、今日は同じ様な事で腹が立った、もう、貴方が汚れとる証拠、昨日とは違う、ね、教えを守らなければならないところが情けなくなったり、まだ心が曇っておる、ね、ですから、こん所を一つ本気で改まらせてもらうということに本気で磨かせて頂くと言う事にです、ね、そして、それを化粧してこそ初めてきれいな姿が見られるように、ね、もう限りなく一つ美しくならせて頂こうと、ね。
 我情我欲を放れて真の道を開けと、わが身は神徳の中に生かされてあると、ね、自分の汚いものを脱皮して、汚い物の中から、ね、自分と言うものが磨かせてもらうところに自分の周囲には神様の御神徳は満ち溢れておると言う事を実感する事が出来るというのである、ね。
 私共は美味しい物を目の前に致しますと、つい汚い心で動くのです、普通は三杯しか食べよらんでも四杯食べる、もう一人食べてしまう先にいっちょで先に食べようとこう思う、だからどうしても動いてはならん、もう、そういうときの姿は、もうガキの姿だと思うんですね。
 限りなく美しゅうならせて頂こうと念願させてもらいよる、もうこれは、もう、様々な事柄の上に於いてそれがいえれる、ね、そして、なるほど、人よりも一つよけい食べるかもしれません、人より早う大きくなるかもしれません、果たしてそれが、何の役に立つだろうか、あー食べ過ぎてから(賓ひん?)の悪かということじゃないでしょうか。ね。
 私は、もう、本当にこの限りなく美しゅうならせて頂くと言うことの上にはです、もう、様々な事が当てはまってくるとこう思うのです。ね、第一ですね、もう、どういうような問題があっても一つ限りなく美しゅうなろうと言う焦点をさせてもらい、焦点をそこにおくとです、問題は解決してくるです、親子円満に夫婦円満に、ね、兄弟仲ようでけていくのです。ね、どうでもだから美しゅうならにゃいかんのです。美しゅうなってまいりますとですね、今度は段々相手が美しゅう見えてくるようになる。われとわが心が両方拝まれるようになると、周囲の人のすべてが拝まれるようになってくるです。それが尊いのです。ね。
 私は本当に椛目の信心から合楽の信心に移らせてもらって、椛目でやはり限りなく美しゅうなろうとということが合言葉であったが、これはおそらく合楽の信心が続く限りこの事を言い続けるだろう、ならば私共がそのことに精進し続けなければ駄目である。誰よりも美しゅう、誰よりも清らかにならせて頂こうという事をです、本気で願わなければいけない、ね、お取次を頂いて願うて行かなければいけない。ね。
 いよいよ、修行させて頂いてでもそこん所を分からせてもらわなければならない、そこに焦点をおかなければいけない、そこから、ついてくるもの、そこから開けてくるもの、それが、天地の道の、そういう限りない美しい心の中から自ずと天地の道が開けてくる、分かってくる、親子の道も、いわば、孝行の道もその限りなく美しゅうならせて頂こうという所から自ずと孝行の道がついてくる。金銭に不自由しない道がついてくる、ね、無病息災の道がついてくる。
 最近は、その、道という、いつもここの場合で問題になるのは道と言う事である、ね、私はその道を間違えておる、自分だけがこう言う立派なお広前に住んで、椛目からの、親は一つも孝行をしない、その知らない間は大坪先生とも言わん、それで出来ることならなければ合楽の信心は値打ちはなかと、もう、本当にそういうふうに気をつけられたんですから。ね、けれども、まあ、気持ちと下着はそれ本当かもしれないけれども、私にはそれが本当と思えないから、まあ、いうならば、そういうところの、もう、いわゆる(   ?      )。ね。
 私は限りなく美しゅうならせて頂こうとするところから、私と親教会との本当の道が開けてくる、大坪さんがもうどんどんお供えになった、それけん大坪さんは三井教会になくてはならない人だとして大事されるようなことは私は嫌である、もう、ごめん蒙り、もし御用は出来なくても、もし人がどう言う風にいうておっても、大坪さんが言うておる事、しておる事は間違いがないよと親から信用される道なんです、そう言う道を私は求めていく、そしてそこは親なんだから、例えば、なら私の両親にも、私がお下がり一つ持っていった事がない、私が大事になぜさすりした事もない、けれども私にとっては一番大事な親、肉親の親であり、私にとっては教えの一番大事な親なのである金光教。
 私と私を親不孝な、あそこの先生はあげんして(  ?  )ばってん、親に不幸しござるちう人はまあ(    ?     )。というて、私がなでたりさすったりするのじゃない、ね、先日のお話の中からです、自ずと私がなでったりさすったりをしない、そういうのは親不孝だと言うふうに決め付けられるけれども、そんなもんじゃない、もう限りなく美しゅうなっていく所から、自ずとついてくるところの親子の道、間違いのない所の道。
 そういう道を辿って生まれてくるところのおかげでなかなければ、それはもう一時的なもの、一生懸命のお供えが出来おったから、私が三井教会に、いやば、大事にされた、あちらの総代さん達から、はぁー、合楽の先生は本当に信心の手本だというふうにいわれたところで何になるか、ね、もし私が出来なくなったら、もう、合楽はつまらんとして、また(   ?   )ならないのである、ね、私の両親に言うておったようにです、もうあんたがお粥にするなら私も一緒にお粥にするとこう言うておった、それが親子なのである、ね、だから、例えば私がお粥にするようであった時でいえば、あってはあった時ほどに私の両親は私に対して情を傾けてくれた、母なんかは、もうあの時分は2食よりも、もう、お粥とお芋さんばっかり食べた。
 私がいつ福岡から帰って来るやら分からない、夕食だけは、決して、もう、10時より先に頂くことがなかったという、私がどんなに遅く帰ってきても、(    ?    )の中にどんぶりにオジヤを一杯ついであった。不思議に思うんです、こういう食事に足らないともいつも一杯づつ、(     ?     )、ところが、総一郎がいつ帰って来るやら分からんからこれは親の情なんです、後から聞いたら、お母さんは(  ?  )自分が食べるわきまえの、住持を打たなければ、もう私はかぎは帰ってこんと言う事が分からなければ食べなかったと言う事を聞かせていただいて、本当にそれが親なのだということ、それを引っくり返して云えば子供も同じようなことを言えれるのである、そういうようなものがです、私は私と三井教会が交流しだした時こそが本当のものであった、ね、私が御用をさせてもらう、一生懸命お供えをする、する時だけはよか大坪さんだろうけれども、いなかったら、もう、(       ?     )、ことはもうごめんだという訳なのです、ね、それは、限りない美しい心にならせて頂こうとするとそういう道が開けてくるのである。ね。
 道を間違えとりゃせんか、道と言うのはもう本当に、道と言う言葉に迷う事なかれ、道は教えを踏むほかにはなし、ね、その道とは、ね、教えを、いわば、踏むほかにないということ、それを今日私は限りなく美しゅうならせて頂こうと云う事を椛目の合言葉をです、分析して申しますと本気で改まらせていただこう、本気で垢を磨かせてもらおう、様々な問題を通して、それを、いよいよ磨きをかけていこうと、ね、そこからです、例えば、云いたい事も云わんで済むおかげが開いてくる、ね。
 ただいまのご信心にならせて頂いたら、●② あの、色紙に、こんな炎に、こう口に加え取る所を頂く、でそれで、私は、まあ、いろいろこと考えたんです、ね、それこそ、炎まで愛すると言う事、炎までしゃぶ、ね、一匹のオウムが炎を加えてから世橋の上を通た、それで、橋の上から(  ?  )、やっぱり一匹の犬が餌を加えて(  ?  )に立っておる、そんなちくしょうなん、いや、人間でも同じ事、ね、ね、その犬が加え取る餌をもう一つ取ろうと思うてから、ワンとして、こう、吠えた途端に自分が持っておる魚も落としてしもうた、ね、それは自分の影であった、そう云うような事が人間の世界の中にも、もう、たくさんあっておるじゃなかろうか、ね、いわゆる、限りなく美しゅうならせて頂こうというようなことに精進をしないから、持っとる上にそれをまたとろうとするところに持っておるものまでもなくしてしまわなければならないような結果になってしまう。ね。
 自分の頂いておるものを本当に有り難く頂くと言うことはです、これは結構なんです、ね、けれどもそれに我欲がつくからおかげを落とすのである、我欲が汚いのである、ただ頂いておるものを頂くと言うことは、これは汚いものじゃない、それはもう当たり前なものだと、それは美しいもの、ね、私共が、その、汚い、ね、ちらちらと除く所の汚い根性と言うものを自分の心の中に発見し直す、それを本気で私はその汚いものを取り除かせて頂くと言う精進をしなければいけない、ね。
 そういう、私は精進をしとらなければです、限りなく美しゅうなろうという事が実感として、お互いが身に交わせない、合言葉になってこない、限りなく美しゅうならせて頂くと、その内容には改まらなければならない、磨かなければ美しゅうはなれないと言う事、その美しゅうなるということは、ね、いよいよ、わが身は神徳の中に生かされてあるという実感を、いわば、ほしいままにその事が出来る、ね、そういう神徳の中に生かされてある喜びをほしいままに出来るようになるからおかげがまたほしいままに、あら、頂けてくるようになるのである、ね、これは、お互いが幸せなっていくために、どうでも頂かなければならないものなのです、とりわけ、人間関係の上に於いて一番難しい頂いておる所でも、それ人間関係がです、私共が本当に美しゅうならせて頂こうと云う気持ちにならせて頂く所からです、そこから道が開けてくる、ね。
 ちょうど、この前の月次祭の終わった後でした、秋永先生が私の部屋へある外部の方を導いて言われました、ね、その方が最近、仲人をした、ね、それはもう、山向こうの人じゃったけんで、(          ?            )きつくなった訳なんです、ところがさぁー、無事に結婚して、済んで、そこで、その仲人さん、そこでお礼に来た、ところがなんかお礼が毛布一枚なんです、もう腹が立って、腹が立ってたまらん、もうこれだけ穂伸ばして頂いてから、そのお礼が毛布一枚と、ね、ところが、その場でもつき返そうごたったけれども、まあ、まてまて、今度は合楽の月次祭だから、お祭りにお参りさせて頂いて、先生にお伺いさせて頂いて返すもんなら返そうと思うて、まあ、ぐうっと堪えて、もう、当分あれは返すと思いますからと言う事を秋永先生に話された、あんた、今日の御理解を何ち頂いたの、この前の月次祭の御理解はどういう御理解でしたかね。
 私がその日、新郎の方はめくらさん、新婦の花嫁さんは体がこのぐらいに曲がっておる、いわゆる、チンバさん、ね、しかも、その、結婚式を奉仕を願われた仲人さんは信心があった、だから、もう、両方も結婚式におかげを頂くだから、もう先生に、もう、ほんなここでちょいと杯をさせてもらうだけでよか、ね、それけん、私がお酒一本は持ってくるけん、先生どうでんこうでんお願いします、はぁーよかどころじゃなか、もう酒一本もいらんごたる、もうちゃーんと私がするけん、もうそれは心配いらない、ところが実際にみえとるのは何とか30人近くのお客さんであった、しかも、結婚式ですから、もう、それこそ、正装した立派な両家の方達がここで集まってみえられる、私は、もう、ここに金屏風を張り巡らせて、神饌物も整え、仲人さんも三人、やはり祭員、いわゆる、おちょうめちょも、ちょっと準備をさせてて頂いてからその結婚式を、まあ、させて頂いた、そして、いよいよ奉仕をさせて頂くだんにならせて頂いたら、もう、本当に、たくさんお金をかけてさせて頂いた結婚式よりも私は感動した。ね。本当に神様が、ね、このめくらが本当に幸せになって行けれる、このチンバもいよいよ、人並みの幸せになって行けれる、その事を神様がどのようにかお喜びであろうかと思うたら、もう、損とか得とかそげなん事は問題じゃなかった、もう、本当に、もうあんたの今日の紋付姿は見事よと言うて、その、私が、いう、それからですね、本当に感激的な、その、いわば、熟的な結婚式であった。両方並ぶ親戚もハンカチを出さない人がなかった、ね、二人が堂々と、その、誓いの言葉を述べる時、ね、本当にこれから一緒に生活をさせて頂くというて新婦の方が神様にお誓いを申し上げる時に、もう、皆が泣いた。
 夕べちょうど平直しで帰った、新婚旅行から帰った、もう、本当に仲むつまじゅう帰ってきた、それで、その、両親と仲人さんが御礼に出て見えた、ね、もう、本当にこの有り難い道と言うのは有り難い、有り難いの中から生まれくるのですよ、ね、これは、もう、とても話せぬ、酒一本しかもってきとらん、持ってくるどころか酒一本も実は持ってこなかった、ね、だから、もういいかげんにしとこうといいよると、汚い心しか生まれてこない、ね、だから、その、例えば、秋永先生が取り止めたその方にもです、今日、親先生のあの言葉はなんと頂いたかと、毛布一枚とも仲人さんが持ってきたんじゃない、神様から頂いたと思うたら押し頂かにゃん、さりげなく、こんなもんは入りませんと言うて返したところでです、角は立たんにしても、それだけせっかく持ってきてもん頂いたらいいじゃない、どんな毛布のようなものであっても、毛布一枚であっても、頂いたらいいが、ね、誰からもろうたんじゃない、神様から頂いたと思うておかげを頂いた、そして、改めてその夜の御祈念の御理、夜のお説教の内容を思い出したらしいです、もう腹がたっとる時は入っとらんですね、秋永先生が今晩の御理解をなんと頂いたかと、ね、こうやってもう入っとらんけん、(   ?   )強かとじゃけん、もう返すばっかりに決めとる心の中に、ね、そこん所を、例えば本当に神様から頂いた毛布であり、御用をさせて頂いたのであり、二人の幸せを願わなければ願わなければおられないと言う仲人さんになって、初めて私はおかげを受けられる、そこから道がついてくるのだと、と言うことはです、ね。
 昨日、私、こんなことをいうてはおかしいんです、それこそおかしいんですけれども、お礼に出てみえられた、ね、夫婦が1日、15日が休みでございますから、1日と15日には夫婦でお礼をさせてもらいますけれども、それ、あんたの結婚式から帰らせて頂いて、内でいよいよ(  ?  )を囲んでから、あの、今日の結婚式の(お札が・おさつが?)なかったこと、もう、初めて信心結婚もずいぶん拝んだけれども、こんな結婚式が初めだった事、平水中学校の、中学校の先生をその兄さんがきておられた、一緒に来ておられた、その嫁さんの姉さんになるかたがです、もう、本当に今日のような有り難い結婚式はなかったと言うて男泣きに泣かれた、だから祈らず兄弟も、親も本当にあの清子さんちいう、(清子きよこ?)は幸せのおかげを頂いたというて、一家中のものが泣きましたというて昨日はお届けをしておった、あんた達が帰ったら早うご縁を頂いたという事であった、そして、昨日お礼に出てこられた、夕べおいでにおられた、今朝から私はお初穂ひろげさせて頂いたらです、とても、ね、お酒一升二升の事じゃない、もう、そうしなければおられない、(笑い)、もう、とにかく向こうのその中にでもです、もう得とか欲とか言うておれない、そういうものが込められてのお礼参拝でございました、ね、ほら、そこから道が開けてくるでしょう。
 はぁー結婚式はもう三千円、五千円、まあ、いろいろございます、どういたしましょうかと言ったようなことを言わんでもいい訳なんです。三千円でいいのだ、問題は幸せになっていくためのそれでいいのだと、ね、それは先生じゃけん、商売じゃできなさるばってんちいうて、そういうもんじゃない、よそでも同じ事なん、そこが、限りなく美ししゅうならせて頂こうという事を、人が助かっていく事さえと言うような神心が強うなってこなければ出来んのじゃないかと思う、ね、そこからです、もう限りなく美しゅうならせて頂こうという所からです、親子の本当の道が生まれてき、夫婦の本当の道が生まれてき、信心でいうならば、いやば、親教会に対する本当のおかげ道が開けてくる、ね。
 いよいよ天地に繋がるところの天地の大道に見ると言う事も、この限りない美しい心にならなければなる事が出来ない、そう言う道がです、もうただそれだけでいいのである、もうそれだけです、道はこうだ、あーだと、こうしなければならないもんだと、親教会にはこんなふうにしなければほんなもんじゃないと言う事をいわんでもです、自ずと有り難うならせて頂こうとする意欲をかから、ね、自ずとついてくる道、ね、美しい心がついてくる道はです。
 例えば、ならこの前の月次祭に、私の結婚式のおかげを奉仕させて頂いて、そして、昨夜、お礼に出てこられた、その中からだけでもその事が皆さん分かるでしょう。そう言う道がついてくるのだと、ね、それが、合楽にこういう道が開けてきた元もやっはりそうなのだ、ね、口だけではなくて、本当に限りなく美しゅうならせて頂こうと、限りなく美しゅうならせて頂こうと云う事の中にですね、ね、ただいまの内容、含んでおります。別けても、人間関係の上に、ね、別けても人間関係の上に限りなく美しゅうならせていただくということを焦点にしてその問題に取り組んだら、その場で解決はしなくても、ね、それが、もう、必ず、そこから解決の道が開けてくる、そして何日か後に、ね、それに、我情もなからなければ、我欲もない、ただ喜びだけが伴うたところが、ここから新しく誕生してくる、新しく生まれてくる、ね、そう言う喜びを私共が生みなしていく、そういうおかげを生みなして行けれるのも、麗しい心に中からである、ね、こじける事はない、もう、限りなく一つならせて頂こうと、家庭の上でもです、問題があった時には、もう、とにかく、限りなく美しゅうならせて頂こうというところに焦点を於いてその問題を、いうならばです、問題にならない事を私共は問題にしておる事はたくさんあると言う事。ね。
 とりわけ、人間関係と言うのは確かに難しい、けれども、合楽でご神縁を頂いて信心の稽古をさせて頂いておる人達の上にはです、その難しい人間関係も、スムーズに受けれる所の、一つの元である、美しい心という、その心を持って解決のおかげを頂いて、いよいよ、人間幸せの基礎、人間幸せの土台をです、ね、そこに於いておかげを蒙っていきたいのでございます。
                                 どうぞ。


末永静行
2006年2月16日